説教要旨

2016年2月14日
主日第二礼拝メッセージ】                       

ピリピ36                               エリヤ松田牧師

ここは、信仰の原則について、人生における信仰の歩みを全うしていくことを学んだところ、私たちが達しているところを基準として進むということを言っています。今日は、賛美、特に天の臨在をテーマに絞っていきたいと思います。
 神様を信じる時、聖霊様の助け恵みがなければ信じることはできません。周囲の方々が信じる方が起こされるためには聖霊様の助けが必要です。26聖人が殉教に際して、ルドビゴ茨木、アントニオが賛美を始めると、4000人の大合唱となり天の臨在が降りてきて、その中でパウロ三木が赦しの福音を語るのです。信仰が揺らいだ方が硬く信仰に立ち、多くの人々が救われたということが書かれています。リバイバルが始まったと語られている中、賛美の働きの中で臨在が表されていく事、天の臨在が降りてくる賛美の働きを求めていきたいと思います。
 では、天の臨在において学んで達したところの基準としていくということですが、天の臨在に触れるにはどうすればよいでしょうか。聖書的にいえば、3つあると思います。まず1つ目、実際に天国に行くことです。パウロは、天に行って帰ってきました。生きている間に行って見て帰ってくるのです。2つ目は、殉教です。ステパノは、殉教する時天を見たのではないかと思える記述があるのです(使徒7章)。ステパノの殉教の時、天が見えるほどの臨在があったのではと考えられます。みこころの殉教の時、強い臨在が注がれるパターンではないかと考えられます。26聖人の殉教の時、準備があるのです。彼らは、時津港に着いて上陸できずに、寒中船の中で揺られながら一睡もできず、過ごしたのです。一睡もできない時、おそらく賛美して祈ったと思います。明日の殉教のために祈る時、御霊の導きを求めて祈ったでしょう。聖霊様によって導かれる殉教は使命です。この使命を全うできるように、栄光を現すことができるように、救われるべき方が救われるように・・主の恵みが注がれるように聖霊様によって導かれ、一晩中祈って殉教を迎えたのです。天の臨在が注がれる時、その土台に祈りがあるのです。3つ目は、主の祈りにあるように、天においてみこころがなっているように、地においてもなさせたまえですから、天において感謝と賛美が満ちているように、地においても感謝と賛美を満たすことができるように。みこころとしている感謝と賛美、礼拝をなすことができるようにと求めつつ、感謝と賛美をなしていくなら、そこに天が見えるようになってくると思います。鍵は感謝と賛美です。私たちが天の臨在を目指しつつ天においてみこころが100パーセントなっているように、地においてもそのように感謝と賛美、礼拝させて下さいと求めるなら、皆さんを通して感謝と賛美の中に天の臨在が垣間見えてくるのです。これが実は、多くの方が救われてくるのに重要となってくるのです。
 達しているところを基準としなさいと言うので、私たちはこの基準を進めていく必要があるのです。主は、皆さんの賛美を通して天の臨在が注がれるのを求めているのです。感謝と賛美、祈っていくことは、恵みの中に満たされるのです。天の臨在が現される目的は、救いです。大事なことは、天の臨在に自分たちが触れる段階から、流すという段階になっていくことです。自分たちが天の臨在に満たされるようにとともに、伝わるように流れるようにという祈りも必要なのです。黙示録216節に、渇いている者は価なしに与えるとあります。渇いている者が神様の元に行くなら、十分に潤して頂く事ができるのです。神様はそうしたいと望んでおられるのです。与える立場になるには、神から受ければいいのです。受けるために、感謝と賛美を満たしてください。必要なのは私たちが十分に潤うことです。十分受けたなら、流したい、与えたいと変えられるはずです。そして、祈ってください。皆さんを通して、天の臨在が注がれ、恵み尾が注がれ、救われてくる方々が多く起こされてくるということを覚えていただきたいと思います。このことは、いろいろな分野においてもそうです。主から頂いたものを流しつつ、主の祝福を見て頂きたいと思います。