説教要旨

 6月7日
【主日第二礼拝メッセージ】 

マルコの福音書8章34節〜37節   
                          エリヤ松田牧師


   …「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」…

    日本のリバイバル、世界のリバイバルは、殉教者達の流した血がその種となっている。日本でも豊臣秀吉によって長崎で最初の殉教者である26聖人の尊い血が流された。最初京都で捕縛され、戻り橋という橋を渡ると殉教を選ぶという選択が許された。戻り橋を渡らなければ、死ぬ事は免れる…という状況であったが、全員が迷う事なくその橋を渡った。それは、まだ神様を知らない多くの人達に、イエス様を伝えるという宣教の思いがあったからでもある。その方法は、人の思っていた方法とは違ったが、殉教の旅の中で伝道していくという事がなされていったのである。
    聖書には『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。』と書かれている。それはもちろん、イエス様の十字架で示された愛が究極の形であるが、私達クリスチャンにおいても、そのような愛を示す事ができるようになる。私達が神様から愛されているのを知り、その愛を体験していく中で、私達もその愛を伝えたいという願いが、神によって与えられてくるのである。神様が与えられるのは、無償の愛である。それは、人の心から出てくるものではない。神様からによってのみ、与えられる愛である。神様から、聖霊から与えられてくるものである。
    神様は、その愛を伝えるという、私達ひとりひとりに対する本来の召しがある。それがこの26人にあっては、殉教という歩みの中で、人々に神の愛を伝えていくという宣教の歩みであった。まだ神様を知らない人々に神様ご自身を伝えていく…という事を選んだのである。それは自分自身が思い描いたような方法ではなく、神様の方法によった。
   私達もこのように、自分の計画や願いには死に、神のみ心がなるように…と、思い願い、自分に任された宣教の働きを全うする者でありましょう!




5月31日
【主日第二礼拝メッセージ】 

ヨハネの福音書15章16節                                  エリヤ松田牧師


  あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

  私達は、終わりの時代に生かされている者としての使命がある。その使命のひとつとして、地上において天の臨在を流す…という事がある。殉教者の方々が流された血、多くのクリスチャン達の祈りの答えとして、リバイバルがやってくる。そのリバイバルの使命を私達が選ぶ時に選ばれるという面がある。神の使命を選ぶとは、神ご自身を選ぶという事。それを選んだひとりひとりを通して、天の臨在が現される。
  私達は、神様からの使命を選び、神の力によってその使命を全うしていきましょう!