説教要旨

2016年2月7日
主日第二礼拝メッセージ】                        エリヤ松田牧師

ヘブル人への手紙12章1節~2節 

今回長崎に行って語りかけを受けまして、二つのことをお話します。
 先ず、一つ目です。26聖人は、日本で初めて信仰の故に殉教した方々です。信仰を捨ててこの世の楽しみを受けることを選ぶこともできましたが、それを選ぶことなく信仰ゆえに殉教することを選んでいきました。西坂―そこは、重罪人達が処刑される場所で、叫び、呪い、苦しみが発せられた場所でした。26聖人は、そこで処刑直前に賛美を始めたのです。歌い始めて4000人が歌う、大合唱となっていき、恰も天が降りてきたような臨在が注がれたと、記録に残っているのです。その臨在が注がれた後に、パウロ三木がメッセージを始めるのです。「私は信仰の故に殺されようとしています。でも、私は私のことを処刑するように命じた太閤秀吉様をぜんぜん恨んでいません。赦します。処刑の責任をもっていた寺沢半三郎を赦します。処刑人を赦します。死を前にしてどうしてうそがつけましょうか。私はこれから天国へ行きます。皆さんも天国へ来てください」と、イエス様を信じてくださいと言うのです。賛美を聞いて、メッセージを聞いた多くの方々が、後にイエス様を信じてキリシタンになったということが記録に残っているのです。
 私たちは今、賛美の中に臨在を求めています。最近秋元牧師が言われたことですが、賛美の臨在が増し加えられる三つの要素がかんがえられると。その1、主のたて上げが進んで主がよしと認めてくれるところで臨在が強く注がれるタイミングがある。その2、神の時があって、私たちが不十分でも神の時に強く注がれる。その3、神がみこころとするメッセージ、証を語って、それに伴って主が強い臨在を注がれる。天の臨在が注がれた後に26聖人は、メッセージをしたのです。人は救われるためには福音のことばを聞く必要がありますので、福音のことばを語らなければなりません。福音の言葉を語る、みこころの証をすることを、賛美の奉仕に立つ方々は準備をする必要があるのです。
 次に、二つ目です。西坂の丘で殉教聖会の賛美が始まった時、思ったのです。今のクリスチャンは殉教して行った方々の祈りの答えとしてこの時代に生かされている。神様は、その方々を通して素晴らしいわざをなされますが、私はふさわしくないものです。私がそのように見えますか・・・と、祈っていたのです。神様は、明確に語ってこられたのです。“そうですね。あなたがやるのだったらそうかもしれない。しかし、あなたを通して神がやるのだったら、神は素晴らしいわざをなすことができます。だから、あなたは自身を見るのではなく、神を見なさい”と。秋元牧師のメッセージの中でも、26聖人の方々は神が働かれたので困難な使命・殉教を全うすることができた。神が全うさせたのだと語られました。私たちは、神様の働きをなしていく中で、人生の中で、問題、困難に臨むにあたって、私たち自身を見るのではなく、神を見ていく必要があるということを覚えて頂きたいと思います。